
「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史
鹿鳴館の夜 ご案内
謹拝 爽秋の候益御清祥のことと御慶び申し上げます。
このたびレストランクレッセントは明治時代鹿鳴館の西洋料理を復刻再現して皆様に賞味して戴く夜会を計画致しました。と申しますのは、私の祖父が明治初年から宮中広島大本営鹿鳴館などに招待されました時の招待状やメニュー類、数十葉が、幸に戦火を免れて遺り、しかも偶然私が戦後レストランを経営することとなりましたので、開業1周年記念に私の祖父がこれらを贈って呉れましたので何時の日かこの明治メニューの一つを再現して見たいと考えておりました。
ご存知の通りレストランの味覚は調理人はもちろん会社並びにその店を主宰する経営者の三者が一体となって醸し出す微妙な総合芸術であり、どの一つが欠けても立派な料理は生まれません。
そこで本年始めから明治時代の洋食につき色々研究を重ね、又再現するメニューをどれにするかも慎重に検討した結果、第一回目は明治二十三年十二月二十三日の鹿鳴館夜会のメニューを選んで見ました。期日は昭和五十年十一月三日(月)(文化の日ー旧明治節)より五日迄の三日間とし、午後八時よりクレッセントハウス三階ホワイトバンケットルームに於て、一日十四名様を限定して調理致しタイト考えます。メニューその他詳細は別紙の通りで御座いますが、当時のメニューに記載された品数が如何にも多い為、美味しく召し上がれる程度のポーション(量)を予定しております。
八十五年前(一八九十年)の鹿鳴館盛宴を思い起こしながら美しい秋の夜をお楽しみ戴き度、明治の香高き芝公園に是非御来駕下さる様ご案内申し上げます
昭和五十年十月一日
石黒孝次郎
この案内状は、かつてレストランクレッセントにて「鹿鳴館の夜」という晩餐会を行っていた頃の、第一回目の案内状です。
この鹿鳴館は、六本木にある現在の国際文化会館がかつて三菱財閥の岩崎邸だった頃に、明治時代に晩餐会で使っていた100人用の銀器、食器類が倉庫で眠っていたものを、岩崎弥太郎氏が、これらをどうにかできないかものかと祖父に相談をいただいたところ、ちょうどレストラン経営をしていたので、まとめて買取をして、せっかくだからと始めたものでした。本当の意味での「豊かさ」が残っていた、いい時代のエピソードだと思いました。
使う食器も明治時代のものなのだから、明治時代の古き良き時代の晩餐会を再現しようということで始められ、その後、およそ二十年この会は続けられました。「明治時代の良き時代の晩餐会を再現する」今では想像もつかない様な、華やかでありながら、厳かでかざらない会を長くの間実現できたのも、クレッセントハウスが醸し出す雰囲気があってこそでした。
又、「レストランの味覚は、料理人、会社、経営者の三者が一体となって醸し出す微妙な総合芸術である」という考え方が、「食は芸術」という点に留まらず、全ての人やことが融合してはじめて人も話題も人生も交差していくレストランの場として、芸術的ともいえる場となるという、祖父なりの静かな情熱を感じるところでもありました。
最近ではこういったパーティーはなかなかありませんが、経済界の一線でご活躍をされている方々や、紳士、淑女の皆様が、ただただひとときを楽しむために集うことができる様な場所は、今の時代にもどこかに必要だなあと感じる次第です。
(岩崎弥太郎さんより祖父が購入をさせていただいた食器類)
晩餐会お料理メニュー
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「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(2)
謹啓 菊花の候皆様方におかれましては益御清祥のことと御慶び申し上げます。
扨去年の十一月三日文化の日より三日間にわたりクレッセントハウスに於いて明治時代鹿鳴館の西洋料理を復刻再現し御賞味戴きました
お陰様にてこの催しは大変なご好評を得、毎年同じ様な夜会を計画する様にとの強いご要望が御座いましたので、別記の日取りを以て第二回鹿鳴館の夜晩餐会を開催させて戴きます
本年はたまたま今から百年前一八七六年(明治九年)の英国に於るメニューが手に入りましたので、この献立を織り込んだ明治風メニューをご賞味頂き度いと存じます。
このメニューは当時の英国皇太子をロンドン市がギルドホールに招待した夜会のものであります。更に本年始め東京の某大家より一九〇六年英国マツピンアンドウェッブ 製の洋食器類の大セットをお譲り戴き、本館1階カーディナルルームを改造して後期ヴィクトリア朝洋食器室(The Late Victorian Dinner Display)を設けましたので、この展示場を御覧に入れた上、これらの銀食器を使用して夜会の雰囲気を一層盛り上げる所存で御座います。
何卒鹿鳴館の盛宴を思い起こしながら、明治の香高き芝公園に皆様御揃いで御来駕下さり、美しい秋の夜を御楽しみ戴き度御案内申し上げます
敬具
昭和五十一年十月一日
石黒孝次郎
レストランクレッセントでの鹿鳴館は、1回目の評判がとても良く、2回目、3回目と続くことになりました。「明治鹿鳴館の西洋料理を復刻再現する」という意志を持った、祖父らしい発想の晩餐会に、毎年様々な人たちが集まってくることになります。
(当時のクレッセント外観。この頃には、4階のギャラリー・社長室と、5階のコレクションルームにも、常に明かりが灯っていました。)
毎回、18世紀末あたりの音楽生演奏を行い、同じ時代のドイツ製のオルゴールを披露します。この時代のオルゴールは、金属の円盤に小さな無数の穴が刻まれており、器具がその穴に引っかかることで音を奏でるのですが、それはそれは美しい音色がするものでした。動画で色々と検索して、一番近い音色のものがあったものはこちら。
鹿鳴館で使われていたオルゴールとは形状は違いますが、音の広がり、深さはこちらが一番近い様に思います。(プチホテルゆばらリゾートのドイツ製オルゴール ポリフォン 1900年)胸の奥底まで響いてくる、心地の良い音でした。
1回目の晩餐会では祖母のコルセットと祖父の軍服が展示されていたそうですが、ちょっと雰囲気的にうるさくなるのでそれはやめて、音楽生演奏とアンティークオルゴールの音色披露、ということになったそうです。祖父の遊び心は、どこまでも続きます。
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「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(3)
候益御清祥のことと御慶び申し上げます。
扨クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜」も、御陰様にて毎回好評理裡に回を重ね第3回を迎えることとなりました。
本年は、明治26年(1893年)当時陸軍軍医総監であった私の祖父が遺しました、その年11月4日宮中招待宴のメニューを復現して御覧に入れたいと存じます。(因に明治26年は日清戦争の前年に当たり、清国や朝鮮との外交関係は正に一触即発の状態にあった年であります。)
今年の晩餐会を計画するにあたり、私共は極力前回迄の経験を生かし、この夜会を単なる明治西洋料理の復刻版に止めず、古典を踏まえ、しかも華麗な昭和の夜会として楽しんで戴けるよう案を練りましたので、何卒明治の香高き芝公園に皆様御揃いで御来駕下さり、美しい秋の夜を御楽しみ被下度御案内申し上げます。尚御食事前には当館四階のチューダーホールに於いて食前酒をさし上げ度く準備致しております。
敬具
昭和52年10月7日
石黒孝次郎
3回目の鹿鳴館晩餐会から、手書きの案内状から印刷へと変わりました。手書きも味わい深いですが、少しづつ新しいところも出てきます。案内状も、案内状というだけに止まらず、3回目、4回目と並べて見てみると、そのまま、世の中の移り変わりのちょっとした歴史を読み進めていくことが出来るところが、だんだんおもしろく感じてきます。
3回目からメニュー表等は母がデザインを手掛けることになります。最初のデザインは、クレッセントハウス外観。メニューも、形や素材等を考えて作っています。
クレッセントではこうして様々な催しが繰り広げられながら、レストランとしてだけでなく、一つの時代を象徴する場として、佇んでいました。
歴史ある、文化的価値を持つ建物が日々なくなっていくことは、とても悲しいこと。去年、今年とパリに行った時にもそれは感じました。パリでは、街並みを守るために、便利さや様々なことを犠牲にしている点もありますが、例えばある建物にこしてきた人が、数十年前に暮らしていた人の受け取った手紙を見つけてそれを見て、その人自身の人生が変わる、なんていう、まるで映画のワンシーンの様な小さな奇跡が起こり得る環境が所々にあります。そうした環境で暮らしている人たちのおおらかさにも触れることができました。
日常をちょっと急いで生きている日本人にはなかなかない感覚ですし、土地建物の価値としては、建物は古くなる程価値を無くす、という考えも強いため、今の日本では、古い建物を守るということ自体が、とても難しい状況にあります。
けれども建物は生きています。古い建物であるほど、ゆっくりと呼吸をしながら、新しい主人を迎えながら、時代の節目を体験しながら、その場にいる人たちのことを静かに見守り続けています。一つ一つの建物が持つ物語が、そこでの生活を豊かにしたり、様々な奇跡を生み出したりする時があります。
クレッセントの資料をまとめていくことで、私自身に出来ることは少なくても、この資料が持つ内容そのものが、誰かに、何かのメッセージになるならと、引き続き資料をまとめて参りたいと思います。
(地下のバーへのエントランス。バーだから、蝙蝠の形の看板!?)